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実家にかえったら天気が思いっきり良かったのでツーリングも兼ねて徳島県まで行ってみた。目的は徳島県にある神代文字(しんだいもじ/かみしろもじ)の石碑を見に行く事である。実は数年前赴任決定後から一時帰国時に行きたいと構想を練っていたのだが、今回やっと念願叶ったのである。ただの出不精といわないでほしい。
なぜわざわざ石碑を見にお隣の徳島県まで行ったのかというと、この石碑が一風変わったというか非常に興味深い文字で刻まれた石碑だからである?
これってハングルじゃないの?いえ、神代文字です
これからお見せする石碑をじっくりと見てほしい。
石碑だけを見てみるとはっきりと見て取れるハングルに似た文字が。
どうだろう?一目見ておわかりだろう。まさしくハングルのそれと似通っている。でもなんでこんな石碑があるのかな?と興味津々ではあるのだが…
数有る神代文字のなかの阿比留文字にあたるもの
失われた文明やオーパーツなど学生時代には図書室でむさぼるようにそっち関係の本を読んでいた人もいると思うが、この神代文字もなかなか歴史がわからず不思議なものとして存在している。
1446年に世宗大王が交付したハングルはご存じ朝鮮語(北・南)で使用されている言葉だが、このハングルと類似した日本の神代文字が阿比留文字にあたるのだ。
こうなると出てくるどちらが起源かの争い
日韓言い争い戦争勃発です。今では考えられないだろうむかーしむかしNEVER掲示板では日韓起源説言い争い戦争が続いていたのを思い出します(笑)
やはり阿比留文字は謎が多くはっきりとした起源がわからないらしい、とある権威が50音しかない=近代言語という事で片付けてしまったらしいが、そう考えるともっともである。
※上代日本語(じょうだいにほんご)は88音あったため
だから研究の意味がないので進まないのでしょうか?しかもこの碑文はハングル読みすると日本語の内容で意味がわかるらしい。
神代文字で読めないが石碑の意味は?
この詩を読んだのが岩雲花香と言う人らしい、国学者で歌人だそうです。孝明天皇拝謁後、故郷の徳島(阿波)を訪れたときに彫らせたと阿波市のサイトには紹介されています。
解説の看板は劣化で判読が難しくなってきているのだが…
碑文にはこう書かれている
■碑文
すきのをのみやのみまへに
なまつのうたよみてしろい
しにてらしてたてまつれるなみのまにいててみえなむ
つぬさはふいはつのふちの
そこのなまつはいわくものはなか■現代訳
昔から岩津の渕の底に大鯰が棲むと聞くがまだ見たことがないので、どうか一度、波間にその巨大な姿を現してほしい
でも岩雲花香は「鯰の歌碑(なまずのかひ)」をなぜ神代文字で彫らせたのだろうか?元々神代文字は神社への奉納時に何を書いているかわからない様にするための一種の暗号として使用されていたものらしい。
読めない碑文は時代背景が関係していたのかもしれない。孝明天皇の次代は明治天皇、岩雲花香は江戸時代末期の尊王家。江戸から明治に変わる時代、倒幕だなんだと荒れており堂々と発言出来ない身であったのかな?なので見てもわからない神代文字で自身の思いを彫らせるのがやっとだったのかもしれない。
しかし歴史資料の石碑が真新しいのはなぜなのか?それより看板をきれいにしてあげてよ(笑)
目立たない場所にひっそりとあるが目の前には大自然広がる
この石碑の場所は目立ちにくい場所にある。側道に入るため私も行きすぎた。しかし石碑を前に吉野川が広がり自然がきれいである。
車で行くと少し不便するかもね。
ウサギたちも大喜びだった。
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